学部生の頃、「システム理論」という言葉をふと目にした。

論理的完結性を求めてさまよう合理主義者だった私は、当然それを設計の話だと思い込んだ。「システム」という語が与える印象がそうだった。大きなプログラムをいかに整った構造で積み上げるか、そういう話だろうと。しかも頭に「一般」まで付いている。特定の言語やドメインを超えた、究極の設計原理のような何か——読み終えれば、ある種の内功が手に入る気がした。

折しもその頃、私はスコット・マイヤーズの『More Effective C++』を読みふけっていた。走火入魔に陥る魔書。 読み終えると設計の地獄に落ち、肝心の作業は一歩も進まなくなる、そういう本だ。ポインタとデストラクタと例外安全のありとあらゆる細かい罠を知ってしまったせいで、一行書くにも地雷原を歩く気分だった時期だから、「一般システム理論」というキーワードを見過ごせるはずがなかった。

ところが、これを理解できる本を手に入れるのが思いのほか難しかった。最初に手に取ったものはどれも抽象的で硬く、入り込む隙がまるでない。私は大学の図書館の書架を漁り、新村(シンチョン)の本屋を何日もかけて歩き回った。初心者が読める一冊を探して。

そうしてようやく手に入れた本を開くと、出てきたのは生物だった。

細胞と生物体と代謝。設計パターンの代わりに開放系、アーキテクチャの代わりに流動平衡。私は驚いた。

生命は物質ではなく組織だ

一般システム理論を作ったのはルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィ、オーストリアの生物学者だ。その出発点は、当時の科学の基本だった還元主義への反発だった。還元主義は、生命を理解するには細かく分割して部品を覗けばよいと考える。

彼は違うと言った。生命をつくるのは特別な物質ではなく、部品が組まれた仕方、すなわち組織だというのだ。生気のようなものを探すな。生きていることは、部分ではなく部分どうしの関係の中にある。

核心の概念をいくつか、目線を合わせてほぐすとこうなる。

第一に、生物体は開放系だ。物質とエネルギーが絶えず通過する。私たちの体をなす原子は、時が経てば大半が入れ替わる。それでも「私」は保たれる。実体は流れ去るのに形は残る——ベルタランフィはこれを流動平衡と呼んだ。しばしば動的平衡ともいう。ろうそくの炎や川の渦を思い浮かべればいい。形はそのままなのに、その形をなす材料は刻々と変わる。

第二に、等結果性だ。開放系は、異なる出発点から、異なる経路をたどっても、同じ最終状態に達する。閉じた物理系は初期条件が結果を釘付けにするが、生きた系はそうではない。発生中の胚を少し揺さぶっても、結局は同じ成体になるように。

第三に、階層性だ。生きているものは層として積み重なる。細胞が集まって組織になり、組織が器官に、器官が個体に、個体が生態系になる。各層は下の層でできていながら、下の層にはなかった性質を新たに帯びる。

第四に、創発だ。いま言った「新たに帯びる性質」が創発である。全体は部分の総和以上であり、「生きていること」はまさにその組織された全体に宿る。

そして驚くべきは、同じ原理がこれらの層のどこでも繰り返される点だ。細胞でも個体でも生態系でも、さらには社会でも。だから「一般」なのだ。特定の生物ではなく、生きたシステム一般についての理論、という意味だった。

設計の内功は得られなかったが

だからシステム理論は、ソフトウェアアーキテクチャの話ではなかった。私の思い違いだった。

しかしその根底の主張は、振り返れば、論理的完結性に飢えた人間こそ耳をそばだてるべきものだった。生命が物質ではなく組織なら、つまり特定の材料ではなく組み方の問題なら、原理的にはその組み方を保持できる何ものからでも生命を作れるということになる。

炭素でなくても。いっそ、格子の上の数字でも。

当時はこの含意がわからなかった。それを目の前で見せてくれるものに出会うのは、ずっと後のことだ。

半世紀後、レニア

出発点はコンウェイのライフゲーム(1970)だ。格子のマスが点いたり消えたりし、いくつかの単純な規則だけでグライダーのような動くパターンが生じる。見るからに階段状に角ばった、デジタル臭い生命だ。

レニアはここからもう一歩進む。バート・チャンが2018年頃に出したもので、ライフゲームのすべてを連続に変える。マスの値は0か1ではなく、その間のどこでもよく、空間も時間も規則もなめらかだ。

結果は驚くべきものだ。角ばったグライダーの代わりに、有機的な形の「生命体」が現れる。最も有名なオルビウムは、顕微鏡の中の微生物やクラゲのように、画面の上をなめらかに滑っていく。

上はレニアを作ったBert Chanの公式WebGLデモだ(出典: Lenia)。さまざまな種の生命体を呼び出してリアルタイムに動かせる。規則はただ一つ——各マスが隣を見て値を少し上げ下げするだけ——なのに、その上に生命体が立ちのぼり、自ら形を保ちながら滑っていく。つついてもたいていは元の姿に戻る。先に述べた等結果性を目で確かめるわけだ。

これらの生命体は動きながらも形を保ち、つつくと揺れて元の姿に戻り、種類も一つの動物園をなすほど多様だ。誰かがマスを一つずつ設計したのではない。規則からひとりでに生まれ、自らを支えるパターンとして存在するだけだ。

ベルタランフィの定義を、コンピュータで

レニアの生命体が這うのを眺めていると、私はベルタランフィの定義がそのまま動くのを見ていることになる。

流動平衡。生命体は、毎フレームすべてのセル値が上書きされるのに形を保つ。材料——数字——は流れ過ぎ、パターンだけが残る。計算でできた渦だ。

等結果性。撹乱を与えると元の姿に自己修復する。別の初期の染みから始めても同じ生命体に収束する。同じ終着点、複数の経路。

階層性。マス一つは死んでいる。マスが組まれれば生命体になり、生命体どうしもぶつかり押しのけて関係を結ぶ。一つの平らな規則から層が立ちのぼる。

創発。「生命体」はどこか一箇所にあるのではない。生きたセルなどない。組織されたパターンそのものがその動物だ。

そして決定的に、ここには化学も、炭素も、生物学のかけらもない。あるのは組織だけだ。物質的な基盤を残らず取り払っても、なお這い、自らを縫い合わせ、自分の体を保っているなら——ベルタランフィは正しかったのだ。生きていることは材料ではなく組み方にある。レニアはパターンだけを残したからこそ、彼の主張を最も極端な形で証明する。

機械を拒んだ理論の、最も美しい証拠

ここに逆転がある。

ベルタランフィが一般システム理論を立てたのは、一部には機械論への抵抗だった。生命を機械へ還元することへの拒否。いわばヒューマニズム的な身ぶりだった——生命は機械以上だ、という。

ところがその理論の最も美しい実証が、よりによって機械なのだ。コンピュータの上で回る決定論的オートマトン。

彼がレニアを見たらどうだったろう。自己組織の概念の勝利だと歓迎しただろうか、それとも「それは生きていることを真似ただけの、もう一つのメカニズムにすぎない」と手を振っただろうか。創始者が自らの後継を見分けられないのは、思想の歴史ではめずらしくない。

クリス・ラングトンは人工生命を「ありえたかもしれない生命」と呼んだ。私たちの知る生命だけでなく、ありうるあらゆる形の生命。この分野全体は、実のところベルタランフィの賭けを受け継いでいる——生命は媒質に縛られない組織だ、という賭けを。レニアは、その賭けが画面の上で配当を払う場面だ。

人工生命が、人工知能と出会う

近ごろ、この流れは人工知能と出会う。

一方では、ニューラルネットにオートマトンの規則を学ばせる。人が規則を手で決める代わりに、ネット自身が、育ち傷を修復する規則を身につけるように。トカゲの尻尾のように、切られても元の姿へ育ち直すパターンが、学習によって作られる。

他方では、人工知能がレニアのような宇宙を私たちの代わりに探索する。オルビウムのような生命体はもともと人が手で見つけたものだが、いまや巨大なAIモデルが「生きて見える」パターンを見分け、新たな生命体を自動的に発掘する。オルビウムの末裔を機械が探しにいくわけだ。

そしてより深い問いがある。知能を設計する代わりに、生命のように育たせられないか。果てしなく新しさを生む開かれた進化を、知能の条件と見る流れだ。完成した設計図ではなく、自らを超え続ける過程としての知能。

そして個人的には、ぐるりと回って元の場所に戻った話でもある。設計の内功を求めて生物に出会い落胆した、あの合理主義者のもとへ、半世紀の思想が流れた末に、その生物が再び計算として戻ってきた。若き日の思い違い——「システム理論なら当然、設計の話だろう」——は間違いではなかった。ただ、早すぎただけだ。

生命は、結局のところ設計の問題だった。ただし、私がC++の本で探していたあの設計ではなかった。

出典 · さらに読む